昭和56年2月18日 朝 御理解第96節
世の人があれこれと神のことを口端にかえけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。
金光様の御信心を頂いておることを、とやこうと、まあ言うたり、言われたりする場合がございます。うちはもう、(・・)一家中で金光様の信心をしょうござるけれども、こうよかことはなかと、金光様の信心をしよって、もう、というような、これもやっぱり、いうならば金光様のもう悪口でありましょうし、とやこう言われることでございます。ところが、そうな苦しい困った難儀なところも通っておられたが、さすがに、やっぱ神様じゃなーと、やっぱ 金光様じゃなあーと言われるようなおかげを受けたとき、神が顔を洗うてやると仰せられるのじゃなかろうか。ね、やっぱ、一生懸命金光様の信心しょんなさったが、やっぱりおかげを受けられたと周囲の者が言いますような、おかげを受けたときに神様が顔を洗うてくださる。神が顔を洗って下さるまでがね、えー、やはり信心辛抱なんです。えー、やっぱり神様じゃなーと皆が感心するようなおかげを皆さんどうでもいただかにゃいけません。それにはね、信心し、続けておりさえすれば良いと言うことではないんです。ねー、ここへんのところを、一つ頂きぬかなければなりません。よう、福岡の吉木先生が仰っておられたが、本当のおかげというものはね、地獄の釜を踏み抜くような勢いで信心さしてもろうて、その踏み抜いたむこうに、極楽はあるんだと、いうような事をおっしゃっておられました。ね、その踏み抜く元気がいるんです。ね、もしその勢いがなからなければ、ただもう苦し紛れに信心が続いておるというだけではいけない。そう頂きぬく、いうならば、本気での填まりと言うかね、こう、あの、いわゆる貫かなければいけません。まあ、私共の、ん-、ほんとに金光様の信心をしよってどうしてあんなに難儀が続くだろううかと、ねー、といわれた時代がありましたけれども、んー、もうほんとにどういう中にあっても、すぐ横が、小さい道がありましたですね、椛目。、だからあの横の道を、通っていると大坪さんかたばかりは、もう、いつ通ったっちゃ、拍手の音がしよる、あげん拝まにゃならんもんじゃろうか、と言うおうてあったといわれております。もう、日に何回拝まんならんということじゃない、もうそれこそうれしいにつけ、苦しいにつけ、ご神前に出て御祈念をする、ね、まあ、あの時分がいうならば、貫きとうしておる時分であったであろう、地獄の釜のそこを踏み抜こうとする勢いの時であったであろう、と思います。ね、そういうね、勢いのある信心をしないとね、おかげにならんです。ただ続いておる、苦しい苦しいが、つづいておっただけでは。
今日、私ご神前で、頂いたことですけれども、まー、大変分かりにくい、私だけが、わかって皆さんには分かりにくいかもしれんけれども、もう結婚をする、結婚式を前にしたといったような、女の方が、あの結婚式の式服を着てから、こう、御祈念をしておるような感じでしたけれど、その、こう、長いおじゅずがありますね、あの、それ、じゅずとも金(かね)の鎖とも分からないような物がこうある、それをね、まあ、えー、形でしてみると、とにかく、手に掛けてあるわけです。そして一杯こうやって、手でこうやって、引っ張って、そして御祈念をしてるわけです。ね、そして私がその御心眼に拝む、拝ませていただくのがね、あれを、あげんしてここにこう、腕にかけてこう、引っ張らんならん、これを、寄せたら、合掌することになったら、あの鎖から、するっとぬけられるのになーと思うたような御心眼でした。ね、例えば苦しいという、まあ、おじゅずか、金の鎖かと、これは、まあ、数珠のように見えたのは、宗教的という意味でしょうし、金の鎖に見えたのは、なんか、金の鎖で縛られているといったような感じなんです。だからこれをこうやって、力でこう、その、しておる、これでは、この鎖が切れない限り、んー、楽にはなれないんですけれども、それをだから、こうやって、よせれば、こう、合掌すれば、するっと、こうぬけるのに、というような御心願でした。そしてまあ今朝のこの御心願を頂いてですたい、ね、信心しておっても、どうしてそうにゃ、一家中で信心しおざるばってんよか事は続かん、次々難儀なことが続くそして、もうあれより貧乏はなかろうと思うような貧乏しござる、と私共が数十年前には、ひとにもいわれ、思われもしただろうと、こう思うのです。ねー、そういうときに、んなら、この鎖から逃れようではなくて、それを、手を合わせて合掌して受けたというところに、するっとそこから抜けることがでけて、抜けたところには、、限りないおかげの世界が有ったように思うんです。皆さんこれは、どういうことかと言うと、皆さん難儀とか、苦しいとかという、苦しいから拝みよるとか参りよるではなくて、苦しいことの内容が、本当にわかりよるにゃでけんて、ねー、それこそ、末は横綱か、大関かというように、神様の御期待があるからこそ、こう言う御期待をして有ってくださってあるんだと思うた時に、いままで苦しかった難儀な、もうとにかくまあこれは、借金の断りに行くときでしたけれども、もうその借金の断りに行くことではない、もう銀行にに金預けに行きよる心が生まれてきたんです。意気揚揚として断わりにいけたんです。ねー、もうそれきりでした。私が借金の断わりに行って難儀をしたのは。ねーそれこそ向こうのほうからもう大坪さん、あん、よかばのと、もうあんたがでけたときで、よかと、というようにまあ言うて頂いたのが、そういうとこを、通り抜けた向こうにあったんです。ね、いうならば、これを苦しい時は、こう引っ張っとったところ、あたしはその結婚式の様相をしておる御心願というのは、まあいうならば、結婚式というのは、あー、男と女との交流と言うことでございますけれども交流の前提にあるときなんです。ねー、いよいよ苦しい、いよいよ難儀と言う時、それは、あー、その、本当に難儀だけを感じておるようなことではね、ここんところが、ひとふんばりしなければならないところ、で、そして、いうなれば、こうやって引っ張るのじゃなくて、これを寄せて合掌の姿になったらするっと抜ける、もう本当に嘘みたいに、あっという間に抜ける、神様の願いはここにある、こう言う苦しい難儀なことでも神愛の現れだ、力を与えて下さろうとしておるというところなんだ、それを、なら、しだごだで通りぬけようとしては、本当のおかげにならないということ、そういう時、いうならば、信心しておっても、どうしてあげん、まー難儀しなさらんなんじゃろうか、貧乏しなさらなんじゃろうか、というような、まーいうならば、神様の事、信心の事、とやこういわれるようなことがあるけれども、そこをただ辛抱というとが、本当の信心辛抱で、いわゆる貫かしてもらう、勢い、ね、その勢いんときにほっと合掌することがわっかってくる。神様の御都合であることがわかってくる、神愛であることが分かってくる。ほて、合掌したらそのままするっと、こうそれから抜けることガでける。ね、皆さん手に例えば、金の鎖なら金の鎖のこんなのをかけておるとおもうてごらんなさい、こうやって、それをこうやって、引っ張ったところで抜けやせん、けれど、これを合掌した時にするっと抜けるでしょう。だから、その事柄に本当に神愛が分かった時です、その先です、神が顔を洗うてやるとおっしゃるようなおかげは、なるほど信心じゃな、かみさまじゃなーと、信心ちゃ有りがたいことじゃなと、かねて一生懸命信心しよっざったが、やっぱ、ああいうおかげ、輝かしいおかげを頂かれなさったと、まあ周囲からでも言われるようなおかげを頂く為には、、これはどうでもね、ただ、あの、辛抱しとけばと言う、堪えておきさえすれば、というんじゃなくて、ね、そのことに対して、いうなら、神様にお礼が言えれる心、そのことに対して、いうならば、拝んで受けられる心、そういう世界にあたしどもが、でた時に初めて神が顔を洗ろうてやるというおかげになる、神様が顔を洗うて下さる時のおかげというものは、もうそれは本当に、なるほど神様じゃなーと人が信心のないようなものでもいうようなおかげになっておるのです。ね、これは、今日お知らせを頂いた、そして今日のご理解を頂いた、そして私の体験をこう合わせてみて、確かに教祖様がおっしゃっるのはそういうっようなことであろうと、顔をあろうてやるというのは、こういう状態なったときに、神様が顔をあらうてくださるんだろうというふうに思うんです。 どうぞ